要するに桜井広明は一人醒めていた。
周囲の友人達は来週に控えた北海道への旅行に向かって、心底驚くほどはしゃぎ浮 き足立っているからだ。
今度から旅行先が北海道になった。6月の、じめじめと続く梅 雨とは無縁の世界。
そして自分たちが踏み入れたことのない、海を越えた粉雪の降る島 。
お前等はしゃぎすぎ、と言い出したくなるのを留め、自分もはしゃいでいる振りをする 。
それが却って広明を醒めさせていた。
広明にとって学校行事で行くような旅行なんて 、大して胸の躍るものではない。
俺は、普通の、いつもの日常が続くことがいいんだ。イベントなんて、めんどくせえ。

要するに桜井広明は一人苛立っていた。
幼馴染みの霜野すずなのことだった。
ここ数ヶ月、霜野の様子がおかしい。俺のことを気にしすぎている。
広明はそう感じていた。
彼女が自分のことを呼び捨てではなく、「くん」付けで呼ぶようになったかを思い出せなくなった頃、唐突にその変化が訪れた。霜野すずなはあからさまに、友人や幼馴染みという関係を踏み越えようと逡巡しているのを見て取るのは簡単だった。簡単すぎたからこそ、広明は敢えて見ないふりをした。思わせぶりな言葉は全て無視する、何か物欲しげな目を向けて見つめる視線はおおむね突っぱねた。
そんな風にされても、霜野すずなは広明を健気に追ってくる。幼馴染みの域を出ないように、そして幼馴染みの粋から出さないように、お互いが見えない牽制をしているようでもあった。
「旅行、楽しみだね」
すずなは広明にそう言う。
「ああ」
彼は面倒くさそうに返した。いつもの多弁さが嘘のように。
俺は、普通の、いつもの日常が続いてほしいんだ。感情なんて、めんどくせえ。

要するに桜井広明は訳がわからなくなっていた。
もう一人の幼馴染み、霜野あおなのことだった。
歳の離れた、自分の姉的な存在であるあおなが、日常的に近くにいることは少なかった。だからこそ、素直に広明はあおなに憧れていたのだ。近所に住む美人で綺麗なお姉さん、そしてどこか抜けている、一緒にいてあげたくなるような迂闊さを持った女の子。
それなりに歳を重ねても、淡い憧れのような感情は霧散してしまうことはなかった。ただ、遠くからみて満足するということを覚えてしまった。何も変わらない、何も変えない、成長し、社会人となり、徐々に離れていくあおなを見て、広明は早々に諦めてしまうことを選んだ。
「北海道への旅行が近づいていますが……」
教壇のほうからする声にふと顔を上げた。そこには、まぎれもなく霜野あおなの姿があった。彼女はこの春から広明、そしてすずなの通う学校へ教員として赴任したのだ。
「何の因果かしらねえけどさ……」
ボソボソと口の中で広明は独りごちる。彼の言うとおり、何の因果か、あおなは広明やすずなのクラスに副担任になってしまったのだった。
今まで会いたくても彼女の家でしか会えなかったのに、いまさらとても近い場所に彼女はやってきた。
どうしてこんな事になったのか……どんなに考えてみても結論を導き出すことは出来ない。
俺は、普通の、今まで通りの日常が続いて欲しかったのに。めんどくせえ。めんどくさい。
が、だけど。だけれども。

空からは全てを埋め尽くすように雨が降り続いていた。
空気を融かすような、粘ついた空気が身体にまとわりつく。
あと数日すれば、この天気が嘘みたいに思えるような土地に行くのか。現実感が少しもねえな。
広明の想いとは裏腹に、時間は確実に動いており、そして人の想いも少しずつ重なり始めていた。

重なりあう想いが、いったいどんな模様を生み出すかはまだわからない。
そして、広明は、重なりつつあることにも気づいてはいなかった。